夏休みの工作からの気付き<後半1>
2017-08-04
みなさま、こんにちは。
本日もありがとうございます、ワキノコビトでございます。
子どもの進路の関係で、少々遠いなぁ・・・と感じるところ
まで電車で行きました。
おなかが空いたのもあり、帰りに途中下車して食事を
することにしました。
食事をしようと決めた場所は、学生時代にたまに
立ち寄ることのあった駅でした。
何年前か、何十年前かはヒミツですが・・・(笑)
あの時友達と食事をしたこの場所に、今は子どもたちと
いる、その感覚が、なんとも表現できないのですが、
嬉しいような恥ずかしいような、とても不思議な
感じがいたしました。
普段感じることはないのに・・・
「場」の持つエネルギーなのか、記憶なのか、
私は、何にそうさせられたのでしょうね。
それでは、昨日のブログの続き、どうぞご覧くださいませ。
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気付きその2
【瞬間瞬間を楽しむ】
途中、古事記好きのコビタロウが、
「手伝ってあげようか」とノリ気で参加してきました。
コビタロウは、工作が好きなので、
「オレにまかせろ!」
というような気持ちでいたのかもしれません。
調子よく始めたのですがしばらくすると、コビタロウは
キリキリギリギリ、いきり立っている様子でした。
どうやらコビタロウには、「コレ!」という完成図があって、
そこに向けてあれこれ工夫をしていたのですが、なかなか
そこに辿りつかずにイライラしていた様なのです。
その様子を見て、当初乗り気などまったくなかったのに、
イヤな気持ちになることなく、ほぼ完成まで進んできた
私との違いを感じました。
何が違うのだろう・・・。
振り返ってみると、私には、ある意味では「完成図」
がありませんでした。
「こういうフォルムで仕上げたい」
「ここにはこれを持ってきたい」
と目指すところはなく、その工程の一つひとつを
じっくりとこなす、という感じで進んでいました。
それは、工程そのもの場合もあれば、
「ダンボールをカッターでキレイに切る」とか
「なるべくゴミの処理を簡単にするように
途中途中で切れ端などを集めておく」など、
完成までに係る一連の流れの中での作業そのものを
楽しむような感じです。
工程が「10」あるとした時に、私はその中の「1」
に対して一つひとつ進めていたのに対して、コビタロウに
とっては、「10」に至るのが成功、としていた。
そのために、「10」に至るまでの「1」を焦りの意識
のまま、ないがしろというか、素通りというか、
「まだできない、まだできない」とばかり思い続けて、
進んではいるのに、焦りが先行して、いきり立つ結果
になってしまったのではないだろうか、と思いました。
(つづく)
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