
なぜ、伊邪那岐命は黄泉の国にまで行ったのか?
2017-05-26
みなさま、こんにちは。
今日もありがとうございます、ワキノコビトでございます。
昨日、マンション全体が漏水による通信網の機能不全、という事態に陥りました。
電話がつながらない、インターネットがつながらない、テレビもつながらない。
何よりやきもきしたのが、「水」です。
一時断水にもなり、その直前には、茶色が混ざった水が出てきたのです。
あわてて、透明の水になったと同時に、試飲して、OKだったのを確認して、
水筒やら鍋やら、溜めておけるも容器に飲料水をため、早々に入浴も済ませました。
非日常の緊急事態のことでしたが、いざという時のための準備・心構えが
必要であると、改めて思い知らされたような出来事でした。
そろそろ梅雨かな…
(©ぱくたそ)
さて、私の愛読書となりつつある「言霊百神」。
古事記の言霊による解義書でありますが、マンガの古事記などでもよく登場する
伊邪那岐命と伊邪那美命の2柱。
死んでしまった伊邪那美命を追いかけて、伊邪那岐命が黄泉の国に行く
という一節があります。
一体なぜ、伊邪那岐命は黄泉の国にまで行ったのか?
そのことが百神に記されていました。
『伊邪那岐命は何故その妻に会うためにわざわざ黄泉国に出かけて行った
のだろう。宗教の行道の上からはかくの如き意図を煩悩と云う。
煩悩は揚棄され解脱されなければならない。それでなければその煩悩に
拘束されて生命の菩提の自覚を得て人間らしい自由な生活を送ることが
出来ないが、然しそのためには煩悩の世界を一応経験して煩悩がまことに
煩悩であることを知って来なければならない。
悪はそれが悪であることを人間が自覚せざる限り存在し、それを人間が
自覚する為に存在するのである』
(「黄泉国(未完成世界)」の項より)
この箇所を読んだ時に、私は、自分自身の見たくない部分が表出した
時に、目をそらしたくなる、見て見ぬふりをしたくなる、隠したくなる、
そのような心境に陥っている時の状況を思い出していました。
『悪はそれが悪であることを人間が自覚せざる限り存在し、それを人間が
自覚する為に存在するのである』
自分のその闇(というと重いですが…)の部分を自分が自覚する、
自覚をするためにその闇が存在している。
闇を経験し、闇を闇として知り、闇を自覚することで初めて揚棄される。
弊社情報誌WAKIのVOL.8から「言霊百神 言語録」を掲載しております。
情報誌WAKI VOL.8
まさに、そのキャッチコピー通り!と一人うなづいている毎日です。
【言霊百神には、すべてが書かれている】
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