椅子は椅子でも、椅子じゃない椅子はな~んだ?!<後編>
2018-02-20
椅子を見て大発見をした、
ワキノコビトでございます。
まだの方は、前編をご覧くださいね。
ご存知の方も多いと思いますが、
弊社グループ代表の七沢賢治は、
「名づけ」の達人です。
先日も、機械の神様、ということで、
「天機置神(あめのはたおかしのかみ)」
という名を創り出しました。
代表は以前、毎朝の講和で、
こんな話もしていました。
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「言葉をあげておいて、そこでその概念が
広がっていくという方法をとっているわけですね。
それを時間の軸を逆にしたりして、振っているわけですね。
ただ祓うというのは、取るという意味だけではないですね。
いっぱいにするという意味もあります。
時間でも空間でも広げたり、いっぱいにするという意味があります。
概念をいっぱいにしていくと具体的な事実になっていくと。」
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まず言葉(名前)を挙げておくと、
そこに概念が集まってくる、
それが事実となってくる、
そのように私は解釈しましたが、
みなさんは、いかがでしょうか。
そこで、「椅子」に戻りましょう。
椅子にも、もとは名前はなかった。
昔々の大昔には、「椅子」というものすら
なかったでしょう。
思い出してみれば、私のおばあちゃんは、
「椅子」ではなく「腰かけ」と
言っていました。
そうすると、「腰かけ」の前にも
「椅子」を指す言葉(名前)が
あったとの予想もできますね。
その前の前の、ず~っと前には、
腰をかけるような概念すらなかった、
のかもしれません。
みんな、地べたに座っているのが当たり前だったら、
椅子なんて必要ありませんものね。
そうです。
存在が必要がなければ、概念などあるはずがありません。
あら、どこまでいってしまったのか。
少し戻りましょう。
「腰かけ」と言っていたおばあちゃんにとっては、
私が「椅子」と言っているものは
「椅子」ではなかった、とも言えますね。
そのように考えてみると、
私の目の前にあるもの全ても、
見方によっては、
「そうではなくなる」
のです。
そうなのだ。
「椅子は椅子ではない!
椅子と名付けられただけなのだ。」
と思った瞬間、私は、他の物全ても、
私がそう思っているものではない、のかも!
と思ったのです。
それは、とても自由な感覚でした。
ワタシですら、私が思っている私ではない、
かもしれない、ということ。
「私も空も飛べるカモ?!」
なんて思ってもいいんだ♪というような。
無邪気な、子どもの思いに
素直になれたような気がしたのでした。
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